安息日の過ごし方 教育297より

 「これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである。」※1

 安息日は教育の一つの手段として測り知ることのできない価値をもっている。神がわれわれのどんなものを要求なさろうとも、神はそれをご自身の栄光で豊かにし、形をかえて、ふたたびわれわれの手にもどしてくださるのである。神がイスラエル人に要求なさった十分の一は、天にある神の宮の型であり、かつ地上における神のご臨在の象徴である聖所の輝かしい美しさを、民の間に維持するためにもっぱら用いられた。これと同じように神のご要求になるわれわれの時間の一部も神のみ名と印を押されてふたたびわれわれに与えられている
「これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしが・・・・主であることを、知らせるためのものである。」「主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた」※2 と神は仰せになった。安息日は創造と救済の力のしるしである。それは生命と知識の源として神をさし示している。それはまた世の初めに人に与えられていた栄光を思い出させ、このようにしてご自身のかたちにかたどってふたたびわれわれを創造される神のみこころをあかししている。

 安息日と家庭は同じようにエデンにおいて定められ、神の目的の中にあって切っても切れない密接なつながりを持っている。この日には他の日よりも特にエデンの生活を送ることができる。家族の者たちが、父親を家庭の祭司とし、また、父と母とを子供たちの先生とし友だちとして、働きに勉強に礼拝にレクリエーションに、ともに交わることが神のご計画であった。しかし罪の結果、生活状態は一変し、この交わりはおおかた妨げられてしまった。父親は一週の間子供たちの顔をほとんど見ないことが多い。父親が子供たちの相手をしたり子供たちに教えたりする機会は全然ないと言ってもよい。しかし神の愛によって、労働の必要は制限されている。安息日の上に神は慈愛のみ手を置かれている。神は、ご自身の日に、家族の者が神と交わり自然と交わり、またお互いに交わる機会を保存されている。

安息日の過ごし方

 安息日は創造力の記念であるから、他のどんな日よりも、神のみわざを通して神を知る日でなければならない。子供たちの心のうちに、安息日についての思いが自然の美しい事物とむすびついていなければならない。安息日にイエスと弟子たちが、野を横切り、湖のほとりを通り、森をぬけて教会堂へおいでになったように、礼拝の場所に出かける家族は幸福である。自然という書物の開かれたページから実例を引いて神のみ言葉である聖書を子供たちに教え、新鮮な清い大気の中で緑の木陰に集まって、天の父なる神のみ言葉を学び、賛美の歌をうたうことのできる父母は幸福である。

このような交わりによって、親は決して切れることのないきずなによって子供たちを自分の心にむすびつけ、ひいては神にむすびつけることができる。
知的な訓練の手段として安息日は無限の価値をもった機会である。安息日学校の教課は、安息日の朝大いそぎで、教課の聖句に目を通すというような学び方でなくて、安息日の午後に次週の分を念入りに研究し、その一週の間毎日これを復習、また実例によって説明するといったような学び方をしたいものである。こうするときに、教課は記憶にきざみこまれ、残らず無くなってしまうようなことのない宝となる。説教を聞くときには、親も子供たちも引用される文章や聖句やまたできるだけ思想の筋などを書きとめて、家に帰ってからお互いにもう一度くりかえすようにしたい。こうすることによって、説教をきいている子供たちによく見受けられがちな退屈さが救われ、すべてのことに注意力と一貫した思想をもつ習慣が養われる。
 
 このようにして暗示を受けたテーマを深く心に思うことにより、これまで夢にも思わなかった宝が生徒の目の前に開かれる。彼は次の聖句に描かれている経験が事実である事を自らの生活の中に立証するであろう。「わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました。」※3 「わたしは、・・・・あなたの定めを深く思います。」「これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、・・・・あなたのしもべは、これらによって戒めをうける。これらを守れば、大いなる報いがある。」※4

索 引
※1.出エ ジプト記31:13
※2.出エジプト記31:13、20:11
※3.エレミヤ書15:16
※4.詩篇119:48, 19:10,11

安息日をいかに過ごすか 「安息日の歴史と意味」 山形俊夫 著より

キリストは地上の生涯で安息日をいかに過ごされたかをまとめてみると、

一、 教会堂に行かれた。求めに応じて聖書を読み説教をなさった。
二、 あまねく巡ってよい事をなさった。
三、 病人のいやし。
四、 罪のゆるし。
五、 弟子たちとともに戸外を歩かれた。
六、 自然との交わり、自然をつくられた神との交わり。
七、 聖書の学びと瞑想。
八、 人々と交わり、招かれてパリサイ人と食事を共にされたこともあった。

 キリストにとって安息日は、神と交わり、聖書を学び、人々と交わり、必要な助けと祝福を与える奉仕の日でした。

 安息日をいかに過ごすかについて、バキオキ博士は、その著書『人間の不安に対する神のやすみ』の中で四つに分類しています。

  1. 神に対する奉仕
  2. 自己に対する奉仕
  3. 他人に対する奉仕
  4. 生活環境に対する奉仕

1.神に対する奉仕

 クリスチャンは毎日神に奉仕していますが、安息日における奉仕はちがいます。普通の日は、世の中の仕事をして、また生活の必要に追われながら、神に仕えていますが、安息日には、他のことをやめて、ただ神にだけ、つかえることができるのです。安息日の休みは、人間中心の休みではなく、神中心の休みであり、安息日の休みは人間に与えられましたが、それは神に属するものです。キリストは、「人の子は、安息日にもまた主なのである」( マルコ2:28) といわれました。イザヤ書58章には「わが聖日」「主の聖日」(13節) とあり、また出エジプト記31:15には、「七日目は全き休みの安息日で、主のために聖である」と記されています。
 単に人間が自分の疲れをいやすための休みではなく、人間が神の像を回復するために与えられた、神の休みの日なのです。
神は人間の生命も時間も支配しておいでになります。この事実を認めて、神を受けいれることを神は求めておいでになるのです。
 神に対する人間の応答は礼拝という形をとりました。出エジプト記16章には、イスラエルの民に対して、「おのおのその所にとどまり、七日目にはその所から出てはならない」(29節)といわれていますが、安息日の集会は、家庭の集まりからはじまったと思われます。列王記下4:23によると、紀元前九世紀には、安息日に人々は預言者のもとに集まったようです。
 バビロン捕囚後、シナゴーグ( 会堂) での安息日の集会は、非常に重くみられました。キリストや弟子たちも忠実には礼拝に出席しました。

2.自己に対する奉仕

 安息日は反省の時です。E・G・ホワイトも安息日に自分の歩みを考え、方向を正すようにすすめています。また魂に充電する日です。より高い霊的経験を求める日です。

3.他人に対する奉仕

 安息日に贖罪を通してあらわされた神の愛にふれた人は、周囲の人にその愛をつたえるようになります。安息日の戒めには、むすこ、娘、しもべ、はしため、牛、ろば、もろもろの家畜、他国の人も含まれています。安息日は自分一人で守るのでなく、他人に対する関心、愛の奉仕が必要なのです。自分だけ教会に行って礼拝すればいいというものではありません。

 キリストの時代のパリサイ人は、緊急なこと以外は、人を助けることも制限していました。キリストは病人、それは緊急なものでない慢性的な病気をいやすことによって、パリサイ人の間違った考えを正そうとされました。18年間、病気の霊につかれて、かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできなかった女を、安息日にいやされました。それをみた会堂司は怒って、群衆にむかい、「働くべき日は六日ある。その間に、なおしてもらいにきなさい。安息日にはいけない」( ルカ13:14) と言ったのです。わたしたちはこのような硬直した考えに驚きますが、宗教は生命を失って形式化する危険がつねにあるのです。

 キリストはこれに答えて、「偽善者たちよ、あなたがたはだれでも、安息日であっても、自分の牛やろばを家畜小屋から解いて、水を飲ませに引き出してやるではないか。それなら、18年間もサタンに縛られていた、アブラハムの娘であるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」( 同15:16) といわれました。そこで、「イエスに反対していた人たちはみな恥じ入った。そして群衆はこぞって、イエスがなされたすべてのすばらしいみわざを見て喜んだ」( 同17) と聖書は記録しています。

 キリストは安息日は、助けを必要としている人々を積極的に助けることによって、神に奉仕する日であることを示されました。片手のなえた人をいやされたときも、「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」といい、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」といわれました。

 安息日の戒めは特に家族のことを述べています。現代人は忙しい生活をしているので、家族に対する十分な配慮を忘れていることがしばしばあります。夫や妻、子どもたちのために時間をとることができない場合もあります。安息日にはほかの仕事をやめるので、家族と交わる時間もできるのです。今日、家族の交わりがないために、崩壊に瀕している家庭が多くあります。

 ユダヤ人の家庭では、安息日に、来訪者のために余分の食事を用意することが、安息日の準備の一つでした。安息日に、孤独を感じている人、寂しい人、慰めを必要としている人、お年寄りなどを招いて、食事をともにすることができればよいと思います。また病人を見舞い、独居老人を訪問するなど、わたしたちの周囲に目を向けるよい機会です。安息日を守ることは、何かをしないという消極的な姿勢でなく、何かをするという積極的な姿勢が必要です。

 E・G・ホワイトは安息日の過ごし方について、多くのよいすすめを残しています。その中の主なものを、前述したこととなるべく重複しないようにして、あげてみましょう。順序は不同です。

 安息日は創造の記念ですから、自然の中にはいって、神のみ業を見ること、特に子供と一緒に戸外にでること。

 あわれみの業と、必要な行為は許される。

 ここで必要というのは、生命を保つため、または苦しんでいる人を助けるために必要な、他の日を待つことができないことです。

 子供のために。

  • 十分の時間をともに過ごす。
  • 一週間の最もたのしい日とする。
  • 聖書の最も興味深い歴史を読んであげる。
  • 食事は簡単に、しかしおいしく、平常とはちがったものを用意する。
  • 野原や森( 戸外) の散歩。
  • 学校には行かない。学校の普通の勉強はしない。
  • 遊びの種類に注意する。

 会話の内容に注意。

  • 健康的な休み。寝床の中で無為に過ごさない。
  • 安息日のふちを守る。
  • 安息日のはじめと終わりの礼拝。

安息日のそなえ
 金曜日「準備の日」( ルカ23:54) と呼ばれています。安息日は一週間中覚えて準備すべきですが、特に金曜日になすべき準備について、E・G・ホワイトは具体的な提案をしています。

心の準備、不和や仲たがいを解決する。
 金曜日にすくなくとも半日は準備の時として、衣服を準備し、靴をみがき、必要な料理をすまし、入浴をする等のことをあげています。それと、安息日は奉仕の日ですから、一週間の仕事のために疲れ切って、安息日に何もできないほど、エネルギーを使い果たしてしまわないように注意しています。

 前に述べたように、ヘッシェルによると、「安息日を聖くせよ」という安息日の戒めの「聖くする」という言葉はヘブル語のル・カデシでタルムードの中では、女性を結婚のためにささげる意味に用いられています。シナイ山におけるこの言葉は、イスラエルに、聖なる日の花婿になる、すなわち第七日と結婚の関係にはいることを強く印象づけるものでした。三世紀の半ば頃、ユダヤのすぐれた学者たちは、安息日をとらえどころのない、過ぎていく、抽象的な時としてではなく、安息日は生きた存在であり、安息日がきたとき、あたかも賓客がきたように感じました。かぐわしい花嫁を迎えるような気持ちで準備したということですが、今日わたしたちもそんな気持ちで安息日を迎えることができれば、さらに大きな祝福にあずかることができると思われます。

4.生活環境に対する奉仕

 バキオキ博士のあげている、生活環境に対する奉仕というのは、環境破壊が進み、生物の存続をおびやかしている現代において、安息日を守る精神は、神がおつくりになったものとして自然の尊さを理解し、これを守っていく精神につながることを意味しています。安息日は世界の創造者である神を示し、人間は、神の創造による世界の管理者であることを教えます。

 ある報告によると、今日、ニューヨークの大気汚染は街路を歩いている人が一日に38本のシガレットと同じ量の有毒ガスを吸い込んでいる勘定になるそうです。安息日の休みは完全への回復を意味します。神が「はなはだ良かった」といわれた創造の時に、彼は自然界に、失われたエネルギーを回復する力をお与えになりました。それには時間が必要です。安息日の休みはその時間を与えるのです。

 安息日が教える管理者としての自覚と、安息日の休みは、自然の回復をもたらすものになるのです。

 第七日安息日すなわち土曜日を守ることは聖書の上からみれば正しいことであり、神の御旨であることは、おわかりになったと思います。しかし現在の社会は日曜日を休業日としているので、土曜日と日曜日を休むことができる週休二日制の職場をのぞき、一般には土曜日を休むことはたやすくない場合も多くあります。そのような時にどうしたらいいでしょうか。社会の慣習に逆行するようなことをして周囲の人々に迷惑をかけても安息日を守るべきでしょうか。そこまでしなくてもいいのではないかと考える人もあるでしょう。

 私たちの信仰は、聖書にもとづいています。それ以外に私たちが真理をはっきり知る方法はありません。神が聖書に示された御旨は、クリスチャンの信仰と行為の基準です。これはクリスチャンの伝統的信仰です。そして神は人間ができないことをお命じになるはずはありません。安息日を守りなさいということは安息日を守ることができるようにしてあげるということです。

 テベリヤの海辺で、キリストはペテロに、「わたしを愛するか」( ヨハネ21:15,16,17) と三度問われました。これはキリストの弟子であることの唯一の条件です。これに対して「あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」( 同17) といったペテロに対して、キリストは伝道の召命をお与えになるとともに、彼の殉教の死を示されました。そして「わたしに従ってきなさい」( 同19) といわれたのです。キリストに従うというのは、キリストのあとからついていくことです。キリストは先に立って道を開いて下さいます。「耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか」、「それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さる」( コリント第一・10:13参照) というのが、試練に対する神の約束です。

 安息日も自分の力で守ろうとすれば、出来ないと感じることもありますが、神にまかせて、神が開いて下さる道を進めば、ゆきづまりはありません。信仰をもって前進すれば、必ず道は開けるのです。昔、イスラエル人がヨルダン川を渡ったときも、信仰をもって水に足をつけたとき、道は開かれたのです。

 戦争中は安息日を守ることは、現在よりはるかに困難でした。大学教授でも一週七日間働かなければなりませんでした。しかし、私たちの家族は一回でも安息日を守れないことはありませんでした。私たちの信仰が特に強かったわけではありません。神がいつも道を開いて下さったのです。E・G・ホワイトは、「天の父は、私たちに一つの道もみえない時に、1000の道をもっていて、私たちのためにそなえて下さる」と書きました。どんなにむずかしく見えるときでも、神が道を開こうと思われるなら、できるのです。私たちが心配する必要はありません。もし道が開かれなければ、それは神の赤信号で、他の道に進んだ方がよいのです。...

 もしあなたが今、安息日を守ることができない立場にあるならば、そのことを心配するより、神の愛をもっと深く学んで下さい。「わたしを愛するか」というキリストの言葉に対してペテロのように答えられるようになったとき、安息日の問題も自然に解決されるのです。