2007年12月SDAロマリンダ大学にて『主の再臨に備えるレクチャーより』
ステファン・ボー カルフォルニア・フレスノ教会牧師
スピーチ翻訳:長谷川英美

内容に基づいた参考動画です。
※翻訳は下記


安息日の隠された真実_第7日目安息日を擁護する翻訳:長谷川英美

 おはようございます。皆さん、安息日おめでとうございます! 素晴らしかったですね。 神さまがわたし達に音楽を与えて下さっているのですね。 感謝の気持ちを、言葉で言い現せないときに、神さまはちゃんと音楽というものを与えてくださっています。 だから、聖書の讃美の場面では音楽とつながっているのですね。それも素晴らしい音楽で。

 さて、神さまの御言葉を勉強する前に、皆さん一緒に頭を垂れてお祈り致しましょう。 勉強するまえに、まずは神さまのお導きをお願いしましょう。 
天にいらっしゃる父なる神さま、素晴らしい、陽射しが溢れる安息日を与えてくださってありがとうございます。神さま、新鮮な空気を吸えることに感謝します。ここにこうして集まる特権をあなたの民に、お与えくださってありがとうございます。あなたの聖なる安息日に感謝します。神さまあなたの御言葉に感謝します。混乱した世界のなかであなたの御言葉は、確かなる導き手となるからです。今朝、聖書の最も偉大なる教えのひとつを勉強しますが、それがわたし達一人ひとりにとって、どのような意味であるのか、聖霊のお導きをお願い致します。わたし達に明確な考えと、真実を受けとめる優しい心をお与えくださいますように。わたし達の祈りに耳を傾け、お応えくださったことに感謝いたします。この祈りをイエスさまの尊き御名を通してお祈り致します。アーメン!

 私は生涯を通して、ずっとセブンスデー・アドベンチストです。産まれたときからアドベンチストであったといえるでしょう。 私の父は退職するまで、41年間牧師でした。私はアドベンチストの小学校に行き、それから大学院に至るまで、すべてアドベンチストで教育を受けました。現在に至るまで、約35年間牧師をしていますが、そのうち6年間は南米コロンビアのメドリン市の大学で6年間神学を教える特権を与えて頂きました。なぜ、今回、自分の経歴についてお話したかといいますと、私は神学を勉強して以来、実際、聖句を勉強し始めてから、「創世記1章と2章」について、ずっと心にかけていたことが2つあったのです。 
 この2つのことが、今年の3月に至るまで長い間解決できずにいたのですが、この3月にパナマに行った折、私の教会が8月に予定していた伝道旅行の準備のためにパナマに行ったのですが、その道すがら、聖霊を通して、今まで解らなかった2つのことについて、回答が与えられたのです。そのとき、私は聖書と『人類のあけぼの』の「創世記の章」を読んでいました。 
 3行くらいの短い文章に私の眼が触れたとき、過去に何度か同じ箇所を読んでいたにもかかわらず、それが一体何を意味しているのか見過ごしており、理解していなかったのだと思います。それから、私は今年の3月以来、2つの論争点についてリサーチを始めました。今回、その結果を皆さんと分かち合いたいと思います。私が長い間理解していなかった2つの論点とは、第7日安息日に関することです。

長年理解していなかった安息日についての2つの論点とは

 創世記1章と2章2,3節を読むと、天地創造の6日間は毎日「夕と朝」が記述されていますが、第7日目安息日には「夕と朝」の記述がない。私は「モーゼが記載するのを忘れたか?」とも思いましたが、神さまが必要であると考えられるなら、ちゃんと書き入れてあるはずですし、神さまはそういうことをなさいません。何かもっと深い理由があるように思われました。でも、私は長い間、第7日目にこの「夕と朝」が書かれていないことが理解できなかったのです。
 創世記2章には、神さまがアダムとイブに安息日を守るようにと、直接的に命令されていないということです。しかしながら、第7日目安息日遵守は、間接的には証明できるのです。安息日は、本来人間のために創られたものでありますし、イエス様は『安息日は人間のために創られたものであって、人間が安息日のために創られたものではない』と言っておられます。アダムとイブは(最初の)安息日には、まだ罪を犯してはいませんでした。安息日は、十戒がシナイ山で与えられる以前に存在していましたし、創世記26章5節で、アブラハムが神の十戒を守っていたことが述べられていますので、神さまの十戒が、モーゼを通してシナイ山で与えられる以前に存在していたのがわかります。 
 これらの事からも、間接的、安息日が人間に与えられたものであるということが充分理解できるのです。私はもし神さまが「アダムとイブとその子孫に安息日を守るよう、創世記2章に書きしるしなさい」とモーゼに命じていたら、事はもっと簡単であったろうにと思うこともありました。しかしながら、創世記2章2, 3節を読む度に確信することは、「第7日目安息日を休まれたのは、神である」ということです。
 人間が休んだとは書いていないのです。神が休まれたということです。

  • 神が休まれた!
  • 攻撃の論点:
     ところで、今回取り上げた、安息日に関する2つの論点は、神さまの恵みにより解決することができたのですが、これら2つの論点は、アドベンチスト教理の聖なる安息日を破壊するために、使われているのです。
    皆さんもご存知かと思いますが、デル・ラッツラフという人物がいますが、「プロクラメイション」というニュースレターのようなものを出版していますが、彼はかってSDAカリフォルニア中部地区連盟に属し、マドレイ・ベイ・アカデミーで聖書を教えていましたが、教会を去った人物です。現在、彼はアドベンチストの教理、神学を破壊するのを生涯のミッション(使命)としています。彼の書いた安息日を攻撃する本のなかでは、この2つの論点が攻撃の対象となっています。
    彼の主旨は:
  1. 第7日目安息日は「夕と朝」の記述がない。従って、第7日目は終わっていないことになる。それゆえ、我々は一週間のどの日でも安息日を取れることになる。
  2. 神が人間に安息日を守りなさいと命令したのは、創世記ではなく、出エジプト記の 20章であって、創世記からこれを証明することは、不可能である。

神が休まれたの意味

 さて、創世記1章を調べてみますと、最初の6日間で、神さまが天地創造の働きをされたことが解ります。最初の一週間の天地創造の焦点は、神さまであり、神さまが主題なのです。創世記1章には、神様の名前が30回以上も出てきます。「神が創造した、神が言われた、神が見た、神が呼ばわれた、神が祝福された、神が設けられて、神が聖別された。。。」 6日間の天地創造の焦点は神様であって、人間ではないことが解ります。 

 最初の6日間の天地創造の最後の聖句(創世記1章31節)には、「神は、神が創られたすべてのものをご覧になって、それは大変良かった。」とあります。最初の6日間が終わったとき、神さまが創造主である、存在するすべてのものを創られたのは神であるということが強調されています。 最初の6日間の天地創造の主題は神さまなのです。そして、第7日目も神さまが中心・主題なのです。

 創世記2章2,3節を見てみましょう__「そして、第7日目に、神は天地創造の働きを終えられた。そして、7日目に神がなさったすべての働きから休まれた。v3)そして神は、第7日目を祝福され、聖別された。なぜなら、「そのなか(in it )」で、天地創造のすべての働きから休まれたからである。」と書かれてあります。
 この2節と3節のなかで、神さまの名前が10回も出てきます。神さまはご自分が創られたのであるという事実を強調されています。ここで、第7日目に神さまが「休まれた」とあります。 この「休まれた」という意味を理解する必要があると思います。ヘブライ語には『休む』という意味が幾つかありますが、この創世記2章2,3節の「休まれた」という言葉がありますが、ヘブライ語で「シャバット」(トは無声音に近い)といいます。 
安息日はここから来ているのです。「シャバット」の意味は、質的にどのような休みであるかを示すのではなく、単に「やめる」という意味なのです。旧約聖書に出てくるこの「シャバット」という言葉は、質的にどのような休みを神さまが過ごされたかを示す言葉でなく、単に、神さまが天地創造を「やめられた」ことを意味します。 天地創造の6日後、神さまは、働きを「シャバット」、天地創造の働きが完成したので、やめられたということです。
ここでちょっと、「聖句に関するヴァイン解説辞書」で述べられている聖書学者のコメントを読んでみたいと思いますが、「創世記2章2,3節は、神が天地創造の働きから休まれたというのを強調するのではなく、むしろその働きが完成したので「やめられた」と言っています。別の言葉で表現しますと、創世記2章2, 3節では、神さまの質的な休みを言うのではなく、単に神が天地創造の働きを「やめられた」ということを述べています。
 つまり、「シャバット「というのは神さまの第7日目の質的な休みをいう言葉でなく、神さまが天地創造を完成されたので、働きを終えたということです。しかしながら、一体どのような第7日目を神さまが過ごされたのか、第7日はどのような一日であったのか気になりますね。
 ひとつ言える確かなことは、神さまが天地創造の働きから休まれたのは、「疲れ」からではないということです。イザヤ書40章28節で、預言者はこう言っています。「あなたは知らなかったか? 聞かなかったか? 主は永遠の神、地の果てまで創られた創造主であって、弱ることなく、疲れることもない。神の知力は計り知れない。「神は疲れない」と言っていますね。
 では、神さまは、天地創造の働きから「シャバットーやめられて」、それから7日目に何をされていたのでしょうか。どんな一日だったのでしょうか?
「預言の霊」を見てみましょう。そして聖書も見てみましょう:
エレン・ホワイトは「人類のあけぼの上」22ページで、神さまの「休まれた」についてこう言っています:
「神は、そのみ手のわざを見て満足された。あらゆるものは、完全で、創造主である神にふさわしかった。神は、疲労のためではなく、その知恵と恵みのわざとその栄光のあらわれを心から喜んで休まれたのである。」
 エレン・ホワイトは、神さまは「そのみ手のわざを見て満足された。」と記述しています。彼女は、神さまがどのような質的な安息日を過ごされたかを語っているのです。

 さて、皆さんに質問ですが、神さまの質的な休みについて「預言の霊」では書かれていますが、聖書でも同じことを言っていると思いますか? 答えは、絶対的に、イエス(はい)ですね。では、ヨブ記の38章を見てみましょう:

 ヨブ記38章で、ヨブは神さまの天地創造のことを思い出しています。大変興味ある箇所です。ヨブ記38章1節~4、7節に:4~6節「私が地の基(地球の基礎)をすえたとき、あなたはどこにいたのか?…」これらの聖句は何を語っているのでしょうか? 天地創造ですね。
 7節に行きましょう:「天の御使いたちが一緒に歌ったとき、すべての神の子らが歓喜の声を上げたとき」と書かれています。天地創造の御業が完成したときに、何が起こったと言っていますか? モーニング・スター明けの明星(天使たち)が一緒にどうしたのですか?「讃美して歌った」のですね。神の子らが何をしたのですか?

 歓喜の声を上げたのですね。彼らは、神さまが創造されたものを喜んだのですか?勿論ですね。喜んでいなかったら、歌ったり、歓喜の声を上げたりしませんね。 
 エレン・ホワイトが言ったことは正しいですね。彼女は、天のすべてが、父なる神さまもイエスさまも、聖霊も天使も神の子らすべてが、最初の神さまの安息日を守った(英語でkept Sabbath)と言っています。神さまの御手の業を祝い喜んだのですね。

 ところで、「モーニング・スター明けの明星」とは天使たちのことです。「神の子ら」とは「世界の住民」のことですね。「各時代の希望」の最後の87章「私の父に、あなた方の父に」英語版385頁゙のキリストの昇天のところに「神の子ら、罪をおかさなかった(墜落しなかった)他世界の住民たち」のことが記述されてあります。 
 だから、わたし達はここで、2種類の天の住民が、天地創造の完成を祝って、最初の安息日に賛美歌を歌ったり、歓喜の声を上げたのが解りますね。あとで、「讃美で歌ったり、歓喜の声を上げる」ことに触れたいと思います。
神さまが最初の安息日をどのように過ごされたのか、ヒントとなる聖句があります。出エジプト記31章の17節に、「出 31:17 これは永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである。それは主が六日のあいだに天地を造り、七日目に休み、かつ、いこわれたからである』」。「わたしとイスラエルの民との永遠のしるしとする」というのは、神が6日間で天地を創造され、7日目に憩われた(シャバット)、refreshed-英語=リフレッシュされた」。
 このリフレッシュとは、ヘブル語で「ナファーッシュ「(to take a breath or to sigh)「息を吸う、ため息をつく」という意味です。ナファーッシュとは、こういう感じです、「うわぁ~!」。つまり、神さまはシャバット、休まれるだけでなく、ナファーッシュ、リフレッシュ、ため息をつかれたのです。神さまは、絵を完成させた画家のように、天地創造の最後のひと筆を入れられて、筆を置き、二、三歩さがられて、ご自分の完成品をご覧になり、「ナファーッシュ「、「うわぁ~!」という喜びに溢れた、ため息をつかれたのです。素晴らしい!美しい!とため息をつかれたのです。そして、天上の天使たちは賛美歌を歌い、神の子らは歓喜の声を上げたのです。神さまは「ナファーッシュ」、ご自分が創られた一大傑作に、ため息をついてご覧になったのです。 

では、もうひとつの聖句に行って見ましょう:
出エジプト記20章11節は、十戒の第4条の結論を言っている聖句ですが、興味あるニュアンス(微妙な意味)があります:「なぜなら、主なる神は6日間で天と地と、海、とそのなかのすべてのものを創られ、そして7日目に、休まれた」。ここでのヘブル語の「休む」は、「シャバット」、「やめる」でしょうか? シャバットではないのです。この20章11節の聖句は、創世記2章に書かれている同じ天地創造のことを言っていますが、モーゼは同じ意味の「休む」「シャバット」という言葉を使わずに、別のヘブル語「ヌアーク」という言葉を使っているのです。興味深いですね。 
ヌアーク」とはどんな意味なのでしょうか? 20章11節に、「神さまは、6日間で天地創造の働きをされ、第7日に「ヌアーク」されたと書かれています。この「ヌアーク」とは「やめる」ではなく、質的な休みを意味するのです。
創世記では、神さまが「休む―止める」を強調し、ここでは「休む—ヌアーク」、質的な休みが強調されています。旧約聖書では、「ヌアーク「とはどんな意味なのでしょうか?基本的には、質的な休みを意味し、喜びや幸せを体験する休息です。この「ヌアーク」についての良い例があります。 
では、エステル記に行って見ましょう。

 エステル記9章17、18節の「休む」に「ヌアーク」が使われています。エステルの時代のイスラエルは、ハマンとアハシュエロス王から殺される運命にあったのです。死の宣告が出され、執行日も決まっていたのですが、神さまが仲介に入られ、イスラエルを敵から救い出しました。イスラエルの民は、死を免れた解放された喜びで、祝宴をしたのです。17節「アダーの月の13日目に、14日目に彼らは休んだ、ヌアークした。「祝宴(feast)」は「ピューリム」といって、カーニバルみたいでした。歌や踊りもあったのです。 
 今日でも、エステルの時代を記念して、祝います。祝宴や喜びや、特別の料理も用意されたということです。だから伝統的ユダヤ人は安息日には断食しませんでした。つまり、ここで言う安息日の「休む」「アヌーク「は、祝宴と喜び・幸せ(feasting とgladness)という意味です。 
神さまは、天地創造の週の終りに、祝宴と喜びで安息日を祝ったのですか? 勿論そうです!質的な休みを言っているのですか?ええ、質的な休みです。安息日は、喜びの幸せの日です! 天使たちが賛美歌を歌って、神の子らである他世界の住民たちも喜びの声をあげたのです!神さまは喜びのため息をついて、「ナファーッシュ!」です。神さまは「ヌアーク」、ご自分の御手の業を喜ばれたのです。 
 エレン・ホワイトの言ったことは正しかったですね。神はご自分が創られたものを、満足感をもって喜ばれたと書かれてありましたね。神さまは美を楽しまれる御方です。

さて、ここで別の重要なポイント「いつ、安息日が祝福され、聖別された」を調べてみましょう。

 私は今年の3月まで、随分と長い間「神さまは、安息日を第7日の始まるときに祝福され、聖別された」と思っていたのです。神さまは6日間働かれ、第7日目が来たときに「さあ、この日を聖なる日としよう!」とされたと思っていたのです。私は間違っていました。神さまは、第7日目安息日が終わるまで、祝福し聖別しなかったのです。このことは、私にとっては、革命的な発見だったのです。
 このことを知っていたのは、聖書以外に、エレン・ホワイトの本だけでした。人によっては、第7日目の始まりでも終りでも大したことはないと思うかも知れませんが、これが神学的にみて重要なことなのです。なぜなら、この「神さまがいつ聖別されたのか?」が解れば、「何故神さまが、アダムとイブに安息日を守るように創世記2章で命令しなかったのか!」を説明することができますし、同時に2つの論争点をくつがえすことができるからです。

 まずはその証拠を、エレン・ホワイトの「預言の霊=証の書」を調べて、それから、聖書を調べ、また「預言の霊」に戻り、両方を見比べましょう。
 「預言の霊」だけをチェックしてはいけません。「預言の霊」を信用していないというのではなく、SDAでない人たちには「預言の霊=証の書」は使えないからです。エレン・ホワイトの本を紹介するときの一番良い方法は、彼女が本物の預言者であるという議論を、教会外の人たちとするのではなく、彼女の本と聖書を見比べることを何度もすればよいのです。わたしが意図していること、解りますか?聖書と「預言の霊」を何回も見比べてみるのです。そうすれば彼らは、「うわぁ~、どうして彼女はこんなこと知っているの?」と思うようになります。 
 今日午後から、ダニエル書11章について勉強しますが、この聖書と彼女の本の比較をやると「どうして、彼女がこの事を知っていたの?」、「彼女って、沢山の聖霊をもらっているのね!」と言うようになるでしょう。彼らは「まあ、聖書と彼女の本が何度も一致したじゃない。この人は、きっと人間の知恵以上のものをもっているのね!」とわかってきます。

 さて、「人類のあけぼの」18頁を見てみましょう:ここが、私がこの3月にパナマに行ったときに、眼にした箇所です。「神さまは、第7日目を休まれた後で、神さまはその日を聖別し、人間の休みの日にとっておかれた。」ここのポイントわかりますか?もう一度いいますが「神さまは第7日目を休まれたあとで、その日を聖別し、人間のための休みの日としてとっておかれた」とあるのです。エレン・ホワイトは、このポイントを一度だけはなく「各時代の希望」のなかでも述べています。

 「各時代の希望1巻」360頁に「なぜなら、神さまが、安息日を休息されたので、神は第7日目を祝福し、聖別された__その日を聖なるご用のために、とりわけられた。」神さまはいつ、安息日を聖なる用途のためにとっておかれたのですか?安息日の日が終わってからですね。また、「神は安息日を休みの日としてアダムに与えられた。」いつ、アダムに休みの日として与えたのですか?安息日が終わってからですね。分かりましたか?別の言葉でいうと、アダムとイブは第2回目の安息日から守るように言われたのですね。このことも、あとで説明しましょう。

神は、その日に休まれたから聖別された:
 エレン・ホワイトの「今日の私の生活」259ページを見てみましょう。 彼女は黙示録1章10節の「主の日」について述べています。「ヨハネ黙示録1章10節で使徒ヨハネが言った『主の日』とは安息日のことである。創造主エホバが天地創造の偉大な働きの後で、休まれた日であり、神さまが祝福され、聖別された日である。なぜなら、神さまがその日を休まれたからである。
 「どうして神さまが、その日を祝福し聖別されたのですか?神さまが休まれたからです。なにが、安息日を清める、聖なるものとするのか知っていますか? 神さまが第7日目の24時間を休まれたという事実です。24時間、過ぎてゆくなかで、神さまは毎時間、毎分、毎秒そこにおられたわけです。そして、最後の一秒にきて安息日が終わったとき、安息日は清いもの、聖なるものとなったのです。なぜなら、神さまの存在が、安息日を聖なるものにするからなのです。

 エレン・ホワイト「預言の霊」(4T,247ページ)に「神は第7日目を祝福し、聖別された。というのは、神さまは素晴らしい天地創造のすべての働きから休まれたからです。」どうして神さまが、第7日を祝福し、聖別されたのですか?というのは、神さまが、第7日を休まれたからですね。彼女は「神が休まれてあとで、聖別された」という引用語句を4度も使っています。

 エレン・ホワイトのコメントは聖書と一致しているでしょうか?調べてみましょう。

 創世記2章3節に戻りましょう。私はどうして長い間「神さまが休まれたあとで、安息日が聖なるものとなった』」いう重要なポイントを見逃していたのか?と思います。 本当に長い間、答えを探し続けていました。注意深く読んでみましょう。「そして神は第7日目を祝福し、そして聖別された。なぜなら、そのなかで(in it , 第7日のなかで)神は、天地創造のすべての働きから休まれた。」はっきりと解りましたか?どうして神さまが聖別されたのですか? 休まれたからですね。彼女は正しかったですね。SDA教会のなかで、彼女だけがこのポイントについてちゃんと書いていました。アドベンチスト教会には安息日について本を書いている筆者が沢山います。でもこの大事なポイントについて、洞察力をもっていたのは、エレン・ホワイトだけでした。

 出エジプト記20章11節を見てみましょう。「神は6日間で天と地と海とそのなかのすべてのものを創られ、そして7日目に休まれた。」神は何をされたのですか? 第7日に休まれた。さて、注意してください。「それゆえ(そんなわけで)」「それゆえ」ってどういう意味ですか? 神は休まれた。それゆえ、神は「神は何をされたのですか?」「神は、安息日を祝福され、聖別された。」いつ、神さまは第7日を祝福され、聖別されたのですか?「神さまが休まれたあと」ですね。最初の安息日は終るまえは、聖なる日ではなかったですね。

それでは、もうひとつの論点「どうして、安息日には夕と朝がないのか」を検討して見ましょう:

 誰が、天地創造の焦点ですか?神さまです。最初の一週間は、神さまの一週間ですね。人間のものとなる前ですから、神さまの一週間です。最初の一週間、誰が働かれたのですか? 神さまです。休まれたのも、誰ですか?神さまです。神さまが6日間働かれ、7日目に休まれたのですね。神さまは、何から休まれたのですか?神さまの働きから休まれたのですね。

 さて、ここで質問ですが、神さまは、天地創造の働きから、いまだに休まれていますか? 答えは、「はい、休まれています」ですね!
 ヘブル書4章3節に、「みわざは世の初めに、できあがっていた。」とあります。天地創造の働きを終えて以来、神さまはまだ創造の働きをされていますか?ヘブル4章3節では、「いまだ創造中」とは書いてありませんね。神さまの天地創造の働きは、完了しているのです。

 さて、エレン・ホワイトの「預言の霊」から二、三箇所、調べてみましょう:
エレン・ホワイトの「人類のあけぼの上」34頁では、「この世界に関する限り、神の創造のわざは終わった。わった」。神さまは、いまだ休まれていますか?休まれていますね。神さまは、第7日目に休まれて、いまだに「天地創造の働き」から休まれているのです。というのは、天地創造の御業は、第一週間で完了した、それ以上やりませんね。神さまは、天地創造の働きをやめてはいますが、その後はただ何もせずに、休まれているということでしょうか? 
 115頁の続きを見てみましょう。
 「ヘブル4章3節では、「みわざは世の初めに、でき上がっていた。」とありますが、神さまのエネルギー(活力)は、いまだもって神の被造物を支えるために使われているのです。それは、単なる脈打ち、呼吸し続ける生体内にある内在的エネルギーによって、動き続けるように設計されたメカニズム(構造や働き)であるというのではなく、ひとつひとつの呼吸が、心臓の脈打ちひとつひとつが、「神さまのすべてに及ぶ支えのなかで、我々が生きて、動いて、そして自分という存在をもっている」(使徒行伝17章28節)という神の守りの証しなのです。我々の地球が毎年、毎年、豊かな実りをもたらし、太陽の周りを回転し続けるのは、地球に内在する力ではないのです。神さまの御手が惑星を導き、それらを天の秩序ある軌道に位置づけられているからなのです。(イザヤ書40章26節、詩篇147章8節、104章20,21、27、28、詩篇147章16節、エレミヤ10章13節)

 エレン・ホワイトは1897年2月18日の世界総会会報で、「神さまは、天地創造の御業の手を止められた(御業を完了された)けれども、ひき続きご自分が創造されたものを支える・保護するために、神の僕を通して働いておられる。」と言っています。
 神さまは天地創造を終えられてから、いまだ休まれておられますが、わたし達やすべての被創造物の保護と維持をなさっているのです。

 それでは、ヨハネ5章17節の、「イエスは彼らに答えられた、『わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」。という解釈はどうなるのか?という人がいますが、前後の聖句を見るとわかりますね。ここでは、天地創造のことを言ってるのではなく、イエスさまは男の麻痺した足を治しておられるのです。人間を回復、再生させているのです。これは、新しい天地創造ではなく、イエスさまは、男の足を回復、元に戻しておられるのです。ご自分が創られたものを支えられているのです。新しい天地創造ではありません。

 ちょっとここで、質問がありますが、これは別のレクチャーになるので、皆さん各自勉強して頂ければいいですが、「いつ、神さまは休むことをやめられる」と思いますか?いつ休むことを止められるのか知っていますか? 千年期の終わりです。この世界を6日間で、再創造されるときです。神さまが次に新しい世界を創られるとき、最初の天地創造のときのように、また6日間かけて創られるのを知っていますか?「どこから、そんな考えが出てきたのか?」と思われるでしょうが、イザヤ書66章22, 23節に「私が作る新しい天、新しい地については….安息日から安息日へとすべての人間は、私の前にきて拝むであろうと主は言われる」とありますね。神さまが新しい天地創造をされて、安息日を天地創造の記念日として守るのであれば、その安息日の前に、6日間が存在するはずですね。わかりますか?安息日を新しい天地創造の記念日として守るのであれば、つまり、神さまはいまだ休まれているのです。再び新天地を創造されるまで。そして勿論、わたし達は安息日を守るのです。

 「新天地での安息日は、人間にとって『夕も朝もない安息日』ではないですか?」と聞く人がいますが、勿論そんなことはありません。夕も朝もあります。最初の天地創造の一週間のあとで神さまは、アダムとイブに第2週目を上げました。人間の一週間が2週目から始まったとき、前例から、第7日目に日の出と日没がありましたね。神さまは、夕から夕まで安息日を守りなさいと言われましたね。十戒の第4条では、第7日目が24時間であることも言っていますね。6日働いて、第7日目(第7番目の日)に休むとありますから、他の6日間が24時間あるのですから、第7日安息日も勿論24時間あるのです。神さまが人間に「一週間の枠組み」を与えたときから、安息日は24時間の時間をもつようになったのです。というのは、第2週目からは人間のための一週間であって、神さまのための一週間ではないのですから。最初の一週間は神さまの一週間でした。人間の一週間は第2週目から始まったのです。

 さて、ここで「人類のあけぼの」29頁を見てみましょう。
 エレン・ホワイトはどう言っているのでしょうか?「安息日と同様に、週は、創造の時に創設されて、聖書の歴史を通じて維持され、われわれに伝えられた。神は世の終末に至るまで継続する週の見本として、最初の一週を設けられた。それは、他のすべての週と同様に、文字通りの七日間であった。神は、六日を創造の働きに用い、七日めに休み、この日を祝福して、人間のための休息の日として聖別された。」

 ところで、世界の創造論者の第一人者であるヘンリー・モリスも、エレン・ホワイトと同じことを、彼の著書「聖書の天地創造説」62頁に言っています:「神は6日間働かれ、それから7日目に休まれた。神は人類の益のために、この恒久的な型として設けられた。」

 エレン・ホワイトは、各時代の希望一巻360頁にこう言われました。「神は安息日に休息されたのでご用のためにとりわけられた(創世記2:3)。神はこの日を休息の日としてアダムにお与えになった。それは創造のみわざの記念で、神の力と愛のしるしとなった。『主はそのくすしきみわざを記念させられた』と聖書に書かれている(詩篇111:4)。『被造物」』は『神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性』とを『天地創造このかた』宣言している(ローマ1:20)。」

いつ、神さまがアダムとイブに休みの日として与えたのでしたか?
 第7日目が終わった時に、与えたのですね。

 さて、十戒の第4条は、「⑥間働いて、7日目に休みなさい」とあります。
 最初の神さまの一週間目は、アダムとイブはこの第4条の安息日を守れるような状況ではなかったですね? 何故かというと、アダムとイブはまだ、6日間働いていませんでしたよ。皆さん、分かりますか?えらい静かですね。
 更に、安息日が終るまで聖なる日とならないものを、どうやってアダムとイブが聖なる日として守るのですか? 分かりましたか? やっと反応がありましたね。いつ、神さまが安息日を聖なる日としたのですか? 安息日が終ったときでしたね。だから、神さまは、第7日目が始まるときに、アダムとイブに守るように言えませんでしたね。 
 神さま:「さあ、安息日を守りなさい!アダム:「どうして守れるのですか? まだ聖なる日になってはいませんよ。 あなたが、まだ聖別されていないのに。」

最初の週の第7日目に休まれたのは、神さまです。

更に、神さまは、神自らが安息日を守る模範をアダムとイブに示さずに、守りなさいとはいえませんでした。 これが、次のポイントとなるのです。 
それでは、アダムとイブは、神さまの最初の週にどう関わっていたのでしょうか? 
「ボー牧師、アダムとイブは最初の安息日は守りませんでしたよ!」という人がいます。理論的にいえばそうです。でも、彼らは、神さまが安息日を守られるのを見て(観察して)いたはずです。神は、何日目にアダムとイブを創りましたか? 6日目ですね。 神さまが、第7日目を休まれたとき、彼らはいましたか? いましたね。 彼らは、神さまが第7日目を守られるのを見ていたでしょうか? ええ、確かに見ていたと思います。

 第7日目に神さまは、アダムとイブをご自分が創られた場所に連れて行かれたでしょうね。エレン・ホワイトの「人類のあけぼの上』22頁を見てみましょう「神は、七日目に休まれたあとで、その日を聖別し、人間の休みの日とされた。」その次に、注意してください。
「人間は、創造主の模範にならって、この聖なる日に休むことになった。」とありますが、神さまが最初に模範を示さないのに、アダムは神さまの模範に見習えますか?これが、神さまがアダムとイブに最初の安息日を守るように言わなかった証拠ですね。彼らは安息日をどういう風に守るのか、お手本を見せて(教えて)もらってないからです。

 ひと昔前、息子が小さかった頃、レゴの組み立て方を息子に教えたことがあります。何種類かの複雑なブロックがあって、交互に組み合わせたり、ちょっと組み合わせが難しかったときに、私が手本を息子に見せたことがあります。「お父さんがやったのを今見ていただろう、だから今度はお前がやってごらん!」と言ったのです。
 神さまも、そんな風にアダムにお手本を見せたのです! 神さまはアダムに命令などしませんでした。でも、まずご自分が安息日をどう守るのか模範を示されたのです。どうして、アダムに模範を示されたのか?それは、アダムが、神さまが創られた天や地やそのなかのすべてを見るとき、神の素晴らしく偉大な御業に心を馳せることができるようにです。「人間は、創造主の模範にならって、こ の聖なる日に休むことになった。それは、人間が天と地をながめて、神の偉大な創造のみわざを瞑想し、神の知恵と恵みの証拠を見て、創造主に対する愛と畏敬の念に満たされるためである。「人類のあけぼの」人類のあけぼの上23

 ロマリンダのような都市では、安息日を守るのは難しいでしょうね。人間が作ったもので囲まれた都市で、安息日を守るのは難しいと思います。神さまの偉大さではなく、人間の偉大さに囲まれているのですから。ビルや車、汚れた空気まで、人間が作ったものです。神さまではなく、人間が中心なのです。
 エレン・ホワイトは、「神は、安息日が、楽園においてさえ人類に欠くことのできないものである」と言っています。人類のあけぼの上23。安息日を守ることが、楽園においてでさえ欠くことのできないものであるのなら、今日のわたし達にとって、神を覚えるということが、如何に不可欠であるのかということを、認識すべきでしょう。神の創造された自然のない場所で、神と交わることがどれほど難しいことであるか!わたし達は自分の利益からはなれ、一週間のたった一日の安息日を神の創造の御業に心を馳せ、深く考え、神の力と善のご品性を瞑想すべきでしょう! 

 アダムにとって、自分が心より楽しみ、手にしているすべてのものが、創造主の御手の業に現われている愛からきているのだということを、感謝の気持ちを持って分かるまで神さまの存在を、もっと鮮明に、自分の心に刻むために、第7日目安息日がなくてはならない日でした。

日曜日は「主の日」ではない!
 だからこそ、日曜日が安息日には絶対なり得ない、不可能であるという真の理由がここにあるのです!
 「私は日曜日を安息日として守っています」という人々がいますが、私は彼らにこう言います。「あなたは不可能なものを無理矢理、可能にしようとしているのですね?」「あら、どうしてですか?」
 「どうしてって、私の聖書には、安息日は『主の安息日』と書いてありますよ。どうして『主の安息日』と言うのか理由を知ってますか?それは、神さまが最初に守られたからです。あなたは、神さまが守らなかった日(日曜日)を、どうやって守ろうというのですか? 神さまが『わたしの聖なる日』と呼ばれる理由は、安息日が主の日だからです。神さまが最初に守られたからなのです。あなたが、日曜日は聖なる日だと言ったり、日曜日に教会に行ったり、自慢されるほど、日曜日だ!日曜日だ!と言われるのはご自由ですが、それが日曜日を聖なる日とすることは、決してできないのです。なぜなら、神さまは安息日をご自分が休まれることによって聖なる日とされたからです。第7日目の全24時間すべてに、神が休まれた、存在されたわけです。神さまの存在ゆえに、第7日目が清いもの、聖別された日となったのです。それゆえ、我々が神を敬い休みに入るためにも、神さまが休まれた日こそが安息日であるのです。」

「安息日はユダヤ人が守るものだ」という人たちがいます。
 それではお聞きしますが、ユダヤ人が最初に安息日を守った人たちなのですね?安息日はユダヤ人の安息日ではないですよ。安息日は、主の安息日です!我々の神さまの日です!神さまの良きご品性、愛、寛大さを覚えておくために私たちに下さった素晴らしい記念日です。なんと素晴らしい神さまにお仕えしていることか! 記念碑や像なんかではありません、神さまがわたし達に下さったのは、「時間」です。最愛の御方と過ごせる24時間すべてです!!

 多くのクリスチャンが安息日を受入れることができないのは、彼らが考えている安息日がパリサイの安息日だからです。それは、偽の安息日です。皆さんは考えられたことがないかも知れませんが、イエスさまがユダヤの宗教指導者たちと一番熾烈な闘いをされたのは、安息日のことについてでした。
 キリストは、彼らの安息日の「誤った守り方」を批判したのです。彼らは、第7日目という正しい日を守ってはいましたが、それを誤ったやり方で守っていたのです。
世の終わりの大争闘は、再び安息日が焦点となりますが、イエスさまの時のような安息日の「守り方」ではなく、今度は「どの日」を安息日として守るのか!が問題となります。

「安息日と十字架上のあがない」
 よく「安息日と天地創造」のことについて語りますが、「安息日と十字架上のあがない」について少し話してみたいと思います。出エジプト記16章のマナのエピソードを覚えていますか?このマナの話を通じて、神さまは我々に何を教えているのかわかりますか?安息日を守りなさいということですが、他にもっと奥深いものが隠されているのです。イスラエルの民がマナを採ったとき、例えば水曜に採って、木曜日のために残しておくことにしたら、そのマナはどうなったでしょうか?

 マナに2つの現象が出てきますね。
➀ パンに虫がわく
② 腐ってくる
 パンを3~4日程ほっておくと古くなって、どうなるか知っていますか?虫がわいて腐ってきますね。 虫がわいて腐るものは他に何ですか?死体ですね。
 もしマナを金曜日に採って、安息日用にとっておくと、マナは腐りませんね。
出エジプト記16章には、素晴らしい救世主(メシア)に関する真実が隠されているのです。
 ヨハネ6章31~58節で、イエスさまは、「私は天国からきた生きたマナである。」と言っています。更に、「マナは私がこの世に与えた肉である」ともっとはっきりと言っています。つまり、マナはイエスさまの体を象徴しています。
 イエスさまが亡くなったのは、週の何曜日でしたか?金曜日でしたね。
人が金曜日になくなったら、土曜日には何が起こりますか?死体は腐り始めますね。イエスさまの体はどうして腐らなかったのでしょうか?イエスさまは生きたマナですね。わたしの意図することがわかりますか? マナは金曜日に採られ、そして土曜日安息日にはまったく新鮮でした。イエスさまは金曜日に亡くなりました。そして安息日には墓のなかで休まれました。
 使徒ペテロは、ペンタコステの折にこのことを取り上げて、詩篇16章10節を引用したのです。「あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖徒に墓を見させられないからである。新改訳」 
 なぜなら、イエスさまは生きたマナであるからです。事実、9節には、「このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。わたしの身もまた安らかである。私の体は希望のうちに休むであろう」とあります。この「休む」に注意してください。
 イエス様は、天地創造の折、6日間働かれ、7日目に「天地創造の働き」から休まれました。 十字架上でのあがないの折イエスさまは、6日目の終りに「あがないの働き」を終えられて、7日目の安息日に墓のなかで「あがないの働き」から休まれました。イエスさまは天から来られた、腐らない「生きたマナ」なのです。

安息日を守る理由は、「天地創造、十字架上のあがない」とつながっているからですが、安息日は未来を示す預言でもあるのです:

 「『わたしが造ろうとする新しい天と、新しい地がわたしの前にながくとどまるように、あなたの子孫と、あなたの名はながくとどまる』と主は言われる。『新月ごとに、安息日ごとに、すべての人はわが前に来て礼拝する」と主は言われる。』」イザヤ書66章22,23節。 
 イエス・キリストは新しい天と地を創造され、わたし達は、安息日ごとにわれらの神を礼拝し、「創造主であり、救世主であり、わたし達が失ったものを回復される神」を祝うのです。

 わたし達は、安息日の意味をもっともっと勉強しなければなりません。でも、今日、あなたにとって安息日は、毎日の慣例になってはいませんか?

 朝起きて、朝食をたべて、服を着て、安息日学校には遅れて教会にゆき、何を歌っているのか考えもしないで賛美歌を歌い、献金を集めて、説教が終れば、安息日午後の活動に何をするかに心がゆき、日没がまだかと待ち望み、土曜の夜に出かけてゆく。一体我々の何人が安息日の意味、「神さまが天地創造をされた理由」』と「十字架上のあがないの理由』」に心の焦点を合わせていることか!?
 そして、イエス様が創られようとする新天地で、もはや死も、悲しみも、犯罪も、苦悩も、涙もなく、栄光と栄誉を帰する神と一緒に永遠に暮らすことができる新天地を心待ちにしているのか!? 我々の何人が、一体安息日を守る理由、何故我々が安息日を守るのか、個人の生活にどんな意義があるのかに焦点を合わせているのでしょうか?!

 では、祈りましょう! 天にいらっしゃる父なる神さま、あなたの聖なる御言葉に感謝します。わたし達に素晴らしい恵み深い安息日を与えてくださって感謝します。私たちのような罪人と一緒の時間を過ごすために、聖なる24時間をとっておいてくださったことに感謝します。あなたは栄光と恵み深い神さまです。これからの安息日は、安息日が意味することに心の焦点を合わせることができるよう助けてください。また、まもなくわたし達を回復されるあなたのすべてについて、理解できるように導いてください。わたし達の心に語りかけてくださって感謝致します。イエスさまの御名を通して、あなたの御名を讃美いたします。アーメン!