安息日は変更できるか

永遠の律法 ― 十戒

 

 の品性の表現である十戒は永遠に変わらないもので、世のはじめからあったものです。アダムやエバにはそれが示されていて、代々伝えられてきたと思われます。なぜならば、創世時代の人間が罪を犯したというのは、律法があったからです。律法がなければ、罪もないのです。またシナイ山で十戒を布告される前に、荒野を旅していたイスラエル人は安息日の戒めを知っていました。

 しかしエジプトで奴隷生活をしている間にイスラエルの民は、十戒がわからなくなってしまいました。そこで、奴隷生活から解放された時、シナイ山において新しく十戒が布告されたのです。

 戒が布告されるとき、神はこの律法の重要性を印象づけるために、イスラエル人に、神の前に出る準備をお命じになりました。彼らはからだと衣服をきよめ、またこころがきよめられるために、へりくだって、断食と祈りに専念しました。山の周囲には境界が設けられ、それにふれるものには、たちどころに死の刑罰がくだるのでした。

 日目の朝、山の頂上は濃い雲におおわれ、山全体は暗黒となり、人々の心はその神秘な光景におそれおののいたのです。濃い暗黒の中にいなずまがひらめき、雷鳴が周囲の山々にこだましました。聖書は、「シナイ山は全山煙った。主が火のなかにあって、その上に下られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山はげしく震えた」( 出エジプト記19:18) と描写しています。神の臨在のしるしは恐るべき印象を与え、モーセさえ、「わたしは恐ろしさのあまり、おののいている」( へブル12:21) と言ったのです。モーセはその光景を、

「主はシナイからこられ、
セイルからわれわれにむかってのぼられ、
パランの山から光を放たれ、
ちよろずの聖者の中からこられた。
その右の手には燃える火があった」
(申命記33:2)

と書いています。

 のようにして与えられた十戒は、簡潔な表現のうちに神と人とに対する人間の義務を全部含み、人間が幸福に生きる道を示したのです。これらの戒めの底を流れているのは愛で、これを要約してキリストは、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」。「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」( マタイ22:37,38) と言われました。十戒は神の本質である愛を反映したもので、物的宇宙の法則と同じように不変のものです。

 の神の律法が、神ご自身の性質をあらわしていることは、次の聖句からもわかります。

律法
エズラ記9:15詩篇119:172
完全マタイ5:48詩篇19:7
レビ記19:2ローマ7:12
詩篇119:68ローマ7:12
真実申命記32:4詩篇119:142

道徳律

 

 戒が与えられたあと、救いの道を示す幕屋の儀式に関する律法(礼典律) と、十戒の原則をいかに社会生活に適用していくかを教える律法がモーセに与えられました。

 ウロが「ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである」( エペソ2:14,15) と書いたのは、礼典律のことです。

 法の問題を考えるとき、道徳律と礼典律を区別していないと聖書のほんとうの意味がわからなくなります。この区別はキリスト教の伝統の中ではっきり区別されて理解されてきたことは、主な信仰告白や信条の中にみることができます。その例として、フィリップ・シャフは、その著、『キリスト教の信条』の中で、「第二スイス信条」( チューリッヒの改革派教会に属し、ヨーロッパの信条中もっとも権威あるものの一つ)、「聖公会三九か条」「米国聖公会改訂三九か条」「アイルランド聖公会大綱」「ウェストミンスター信仰告白」「組合教会のサヴォイ宣言」「一六八八年のバプテスト信仰告白」「メソジスト宗教個条」等をあげています。

 れらの信条や信仰告白は、礼典律が廃せられたことを述べるとともに、道徳律は不変であると主張しています。

 徳律の永続性については次のような聖句からも明らかです。

  • 「すべてのさとし( 英訳の戒め) は確かである。これらは世々かぎりなく堅く立ち」(詩篇111:7,8)。
  • 「あなたのもろもろの戒めはまことです。わたしは早くからあなたのあかしによって、あなたがこれをとこしえに立てられたことを知りました」( 詩篇119:151,152)。
  • 「あなたのみ言葉の全体は真理です。あなたの正しいおきてのすべては、とこしえに絶えることはありません」( 詩篇119:160)。
 

 エス・キリストは有名な山上の説教の中で、「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」( マタイ5:17,18) と言われました。



 戒はその性質上不変のものですが、これが変えられるものならば、イエスの十字架による福音も不必要になってしまいます。人間を死より救うためには律法を廃止すればよいのです。しかし律法は変えることができないので、キリストの身代わりの死が必要であったのです。

この十戒の第四条が安息日の戒めであり、これは変更することのできないものです。安息日の戒めは、他の九条とちがって、ただ礼拝日を定めている形式的な律法にすぎない。したがって変更しても問題ではないと考えている人もいますが、そうではありません。

 ず第一に神が、道徳律の中に一つだけ形式的な律法をおいれになったということもおかしいですし、十戒のうちで第四条はこの十戒を与えた神がいかなる方で、人間とどんな関係をもっておいでになるかを示している唯一の戒めなのです。その意味では十戒の中心となる戒めであり、第四条を認めこれに従うことは創造者としての神を認める、信仰の基本的な行為です。これが変更されることは考えられないことです。


引用文献
「安息日の歴史と意味」 山形俊夫 著