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聖書による安息日問答


 「人の子は安息日の主である」マタイによる福音書 12:8


 「安息日を覚えて、これを聖とせよ。...七日目はあなたの神、主の安息である」出エジプト記20:8-10


 「さて、安息日が終ったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。そして週の初めの日に、早朝、日の出のころ墓に行った。そして、彼らは『だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがしてくれるのでしょうか』と話し合っていた。ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。この石は非常に大きかった。墓の中にはいると、右手に真白な長い衣を着た若者がすわっているのを見て、非常に驚いた。するとこの若者は言った、『驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない。ごらんなさい、ここがお納めした場所である』マルコによる福音書 16:1-6


 「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである」マタイによる福音書5:17


 「よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」マタイによる福音書 5:18


 「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」マルコによる福音書 2:27(安息日はユダヤ人が存在する 1500 年前人類に与えられていた。創世記 2:1-3 を参照)


 「 この日は準備の日であって、安息日が始まりかけていた。イエスと一緒にガリラヤからきた女たちは、あとについてきて、その墓を見、またイエスのからだが納められる様子を見とどけた。そして帰って、香料と香油とを用意した。それからおきてに従って安息日を休んだ」ルカによる福音書23:54-56


 「 パウロは例によって、その会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基いて彼らと論じ 」 使徒行伝 17:2



 「こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである」ヘブル人への手紙 4:9、10


 「すなわち、聖書のある箇所で、七日目のことについて、『神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた』と言われた」 ヘブル人への手紙 4:4


 「神のみ旨を皆あますところなく、あなたがたに伝えておいたからである」使徒行伝 20:27 新約聖書には、安息日に関して、少なくとも59回言及されている。使徒行伝にはパウロとその仲間達が宗教的な集まりをしたことに関して安息日のことが84回も記録されている。しかしながら、全聖書で日曜日を守るようにと教えているところは一つのことばもない。


 「彼 (“小さな角”の権力)は、いと高き者に敵して言葉を出し、かつ、いと高き者の聖徒を悩ます。彼はまた時と律法とを変えようと望む」ダニエル書 7:25



 「もし教会がそのような権威を持っていなかったなら、すべての近代宗教家たちが教会に同意することはないし、また何ら聖書の権威によらずに、第七日目の安息日の遵守を第一日目の日曜日に取り替えることもできなかっであろう 」 Doctrinal Catechism ( カトリック [ 公教 ] 要理、174


 「 われわれは、カトリック教会がラオデキヤ会議(364A.D.)において儀式を土曜日より日曜日に移したがゆえに、土曜日に代えて日曜日を守るのである 」 The Convert's Catechism of CatholicDoctrine,by Peter Geirmann,p50.(この教理問答は1910 年1月10日、法王の祝福を受けた。)


 合同教会:「たとえどんなに厳格に、あるいは、真剣に日曜日を過ごしたとしても、私たちが安息日を守っていないということは非常に明らかである」 Dr R.W.Dale,"The Ten Commandments"p106

メソジスト教会:「Sabbath( 安息日 ) は、ヘブル語で休息を意味し週の第七日目である。...新約聖書には第一日目に関して何の律法もないことを認めなければならない」Buck's TheologicalDictionary

「幼児洗礼に関する命令がないということは真実である。また、週の第一目を清く守れという何らかの戒めもない。多くの者はキリストが安息日を変更したと信じている。しかし、主御自身のことばから、彼がそのような目的のために来られたと信じる者たちは、推測のうちにそれを卑しめているにすぎない」 Amos Binney, “TheologicalCompendium”pp180-181

バプテスト教会:「安息日を守って聖とせよという戒めは過去に存在したし、また存在しているが、しかし、それは日曜日ではない。しかしながら、安息日は週の第七日目から第1日に変更されたと、ある者たちは勝ち誇って、ちゅうちょなく言うだろう。...私は長年この課題について真剣に資料を求めて研究してきたが、どこにそのような変更の記録が見られるのかと、私は尋ねたい。新約聖書の中には絶対にない。...もちろん私は、日曜日が初代キリスト教の歴史に採用されなかったことは良く知っている。..しかし、それは異教の焼き印が押されており、太陽神の名がつけられ、背教法王教によって取り入れられ、認可され、プロテスタントによって聖なる遺産として受け継がれてきたことは、まことに遺憾なことである 」Dr.E.T.Hiscox,author of the Baptist Manual.

「カトリック教会は、プロテスタントが存在する一千年前に、教会の神聖な使命によって土曜日から日曜日に変えたのである 」 Catholic Mirror,9-1893

「勿論,カトリック教会は、その変更は教会のやったことだと主張する。その行為は宗教的なことに関しての教会の権力と権威のしるしなのである」 C.F.Thomas,Chancellor under CardinalGibbons.Gibbons.


  「あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである」ローマ人への手紙 6:16


 「これに対して、ペテロをはじめ使徒たちは言った、『人間に従うよりは、神に従うべきである』使徒行伝5:29


 「『父または母を敬わなくてもよろしい』と言っている。こうしてあなたがたは自分たちの言い伝えによって、神の言を無にしている。..『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教えとして教え、無意味にわたしを拝んでいる』」マタイによる福音書 15:6-9


 「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」マタイによる福音書 7:13、14 (ノア、ロト、キリストの時代も神に従ったのは少数だった。大多数は滅びの道を選んだ。)


 「兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び」コリント人への第一の手紙 1:26、27(キリストの時代の偉い宗教家達も真理を拒んだ。キリストに従ったのは平凡な者たちであった。)


 「神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる」使徒行伝 17:30


 「『彼を知っている』と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない」ヨハネの第一の手紙 2:4


 「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである」ヨハネによる福音書 14:15


 「なぜなら、律法をことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるからである」ヤコブの手紙2:10


 「『彼におる』と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである」。ヨハネの第一の手紙 2:6


 「それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように ( 習慣 - 欽定訳 ) 会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた」ルカによる福音書 4:16


 「主なるわたしは変ることがない」 マラキ書 3:6。
「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」ヘブル人への手紙13:8


 「そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となり」ヘブル人への手紙 5:9


 「イエスは言われた、『なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい』」マタイによる福音書 19:17


 「神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである」創世記 2:3

「祝福せよとの命をわたしはうけた、すでに神が祝福されたものを、わたしは変えることができない」民数記 23:20

「主よ、あなたの祝福されるものは長く祝福を受けるからです」歴代志上 17:27


 「人が見て自分で正しいとする道があり、その終りはついに死にいたる道となるものがある」箴言16:25

「霊によって霊のことを解釈するのである。生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない」コリント人へ第一の手紙2:13、14


 「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」マタイによる福音書7:21


 「耳をそむけて律法を聞かない者は、その祈でさえも憎まれる」箴言 28:9


 「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」マタイによる福音書7:22、23。



 「これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。

まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」マタイによる福音書 6:32、33

「わたしは、むかし年若かった時も、年老いた今も、正しい人が捨てられ、あるいはその子孫が食物を請いあるくのを見たことがない」詩篇37:25


  「わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」 マタイによる福音書 5:11、12

「もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい」ヨハネによる福音書 15:18


  「 わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない」マタイによる福音書10:37、38

「それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない」ルカによる福音書 14:33


 「ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」 コリント人への第二の手紙 12:9、10

「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」ピリピ人への手紙 4:13


 「よく聞いておくがよい。だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」ルカによる福音書 18:29、30

「いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、神の戒めを守る者たちは、さいわいである」ヨハネの黙示録22:14( 欽定訳)


 「『わたしが造ろうとする新しい天と、新しい地がわたしの前にながくとどまるように、あなたの子孫と、あなたの名はながくとどまる』と主は言われる。
『新月ごとに、安息日ごとに、すべての人はわが前に来て礼拝する』と主は言われる」イザヤ書66:22、23


 「良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」マタイによる福音書 25:21。