日曜日か土曜日か近い将来の人類の大問題

 タンは世界に7億(1979年当時)の信者をもつ巨大なローマ教会( 黙13章の第1の獣) とアメリカのプロテスタント( 黙13章の第2の獣) を通して全人類に獣の印( ローマ教会の権威によって神の戒に反して、週の第1日である日曜日を守ることを強制したので、この日が獣の印と言われる) を強制し、その印を拒む者をみな殺そうとする。これに反し、神はその残りの教会を通して、神の印(土曜日、真の神の安息日) を信ずる者の頭(心) に記す。すなわち、キリストとサタンの大争闘は土曜日か、日曜日か、神に従うか、サタンに従うかとの問題を中心として、クライマックスに達するに至る。これには全ての人間が含まれ、誰一人として逃れ得る者はない。聖書にはそう預言されている。「また、小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、その右の手(働き) あるいは額(心中、又は思想) に刻印を押させ、この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした」( 黙13:16、17)。しかし、この偽の安息日、日曜日を聖日として受け入れない少数の人々がいる「地に住む者で世の初めから、ほふられた小羊のいのちの書に、その名をしるされていない者はみな、この獣を拝むであろう」(欽定訳英文による、黙13:8)。神に従うか、サタンに従うかは全ての人が自分で決定しなくてはならない

神かサタンか、どちらに従うか

最重要事である。思想と行動において、我々はどちらの印を受けるかを決定する。サタンは死を持ってこの問題を強要してくる。しかし、神もいとも厳粛な警告を与えておられる。「おおよそ、獣とその像とを拝み、額や手に刻印を受ける者は、神の怒りの杯に混ぜものなしに盛られた、神の激しい怒りのぶどう酒を飲み、聖なる御使たちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。その苦しみの煙は世々限りなく立ちのぼり、そして、獣とその像とを拝む者、また、だれでもその名の刻印を受けている者は、昼も夜も休みが得られない。ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」(黙14:9-12)。

 こそ我々は全宇宙及び我らが住むこの地球及びその中に住む一切の生物、無生物を創造された唯一の真の神、我らが知ると知らぬとに係わりなく、我らに生命を与え、絶えず我らを守り幸いを賜う神、そして神の言、聖書を通して我らのために死に給うた救主イエス・キリストによって罪より救われ、やがて主イエスの再臨の時に(その日は近い)、永遠の生命を信じる全ての者に約束される唯一の真の救主に悔い改めて立ち帰り、真人間としての歩みと行いにより、最後の試みの日に神に忠誠を尽す者とならなくてはならない。私たちの生命の源である神に背き、我らのために生命をすてて救わんとしておられる真の神、キリストを拒む者は、やがて天火によって滅び尽されるのである。
 
 は唯一人の真の神であり、信じ従う者は必ず救い、背きもとる者は必ず罰し給う方である。我々は一切の目に見える偶像と目に見えない偶像とをすてて彼に従わねばならない。

 曜日は一般のキリスト教徒も偶像教徒も、無神論者も、地球上の住民の大部分が休みの日としている。やがて全世界に日曜休業令が布告される日が来るであろう。そして全世界の全ての人がその時自分の運命を決定する。そして預言されたキリストの再臨が起る。善人も悪人もその日報いを受ける。我々はその時の備えが出きているだろうか。

―日曜日か土曜日か 伊藤繁美著_第1章概論p3-5より

日曜日か土曜日か

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創造主の権威のしるし―第7 日目安息日が最後の戦いの焦点となる。誰がいつ、土曜日安息日礼拝を日曜礼拝に変えたのかを明確にする聖書と歴史から捜査する。

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