難解な聖句
安息日―神を礼拝する日はいつでもいいか?
安息日―神を礼拝する日は、いつでもいいか?
礼拝日は、一週のうちどの日でもいい。日曜日であろうが、土曜日であろうが、真心から神を礼拝すればどの日でもいいのである。ローマ書14:5にそうパウロは教えているのではないか?
聖書を解釈するには、少なくとも二つの大事な原則がある
①聖句の文脈を見ること。②聖書全体の教えと照らし合わせることである。そうしないと、矛盾がいくつでも出てきて調和にかけてくる。結果は限りなく分派が出てくることになる。
聖書を読んでみよう
「また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。」ローマ人への手紙14:5
文脈を見てみよう
「信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べる。 食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。 他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。日を重んじる者は、主のために重んじる。また食べる者も主のために食べる。神に感謝して食べるからである。食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する」ローマ人への手紙41:1-6。
パウロは、ここで論じているのは、食べ物のことについてである。さらに、17,21節にも飲食について論じている。1節から始まった文脈の連続で、その中に日のことまで言及しているのは第七日安息日のことでなく、ユダヤ人が守っていた祭りに関する安息日のことである。
パウロは、旧約聖書に精通していて、清い食べ物、汚れた食べ物について、また、信者は何でも食べていいというのではなかった。健康のことに留意することは、信者にとってどんなに重要であることは、1コリント6:19-20、2コリント7:1、1テサロニケ5:23でも分かる。野菜を食べる人は、信仰の弱い人であろうか。誰もそうは考えないであろう。
従って、ここでは、十字架において廃止されたユダヤ制度の飲食や祭りの定められた日などに関することを言っているのである。コロサイ2:16に「だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない」と書いてあるように個人の信仰と良心の問題である。これらの規定は礼典律と呼ばれ十字架までのことである。十戒は道徳律であり永遠に続くものである。
決して十戒の第4条の安息日のことではない。創造と贖罪の記念日である第7日安息日は、創造の時に神ご自身「祝福」し、「休まれ」、「聖別」された。更に主ご自身「よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」と言われた。安息日については、「わが安息日を聖別せよ、これはわたしとあなた方との間のしるし」であると言われた(エゼキエル20:12、20)。また、イエスは「安息日の主」である(マタイ12:8)とも言われた。安息日遵守は天国までも永遠に続くものである(イザヤ66:23)と聖書は言っている。従って、ここは十戒の第7日安息日のことを言っているのではないことは明白である。
ローマ14:5の「どの日も同じ」であると書いてあるが、どの日でも創造主の礼拝日としていいというのではない。「~と同じ、alike」は、翻訳者が付け加えた言葉である。週のどの日でも同じだから、どの日を礼拝日としてもいいということではない。安息日は、創造主の権威のしるしで「聖別」された日である。ローマ・カトリック教会は、教会の権威で週の第七日目から第一日目に変えたと主張しているが、それはイエス・キリストが日曜日に復活された理由によるというのである。主ご自身、毎安息日に会堂に行かれたし、弟子たちも主が死なれてからも安息日を守り続けた(ルカ23:56、24:1)。
出エジプト16章を見ると、4節に、「毎日」マナが集められたが、「聖安息日」には集めてはならなかった。 従って、ローマ14:5の聖句は、安息日礼拝を週のどの日にしてもいいと教えてはいないということが分かる。聖書は、文脈と聖書全体から解釈しなければならない。